Diary 2013. 2
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2月28日 (木)  検査

先日の早朝に近くの都立高等学校の前を通ったら、校門の前や付近の路上に教職員と思われる人が数人で立っていた。いつもの朝とは違う光景だったので何事なのかと怪しんだ。帰り際に校門の前を通ると「学力検査会場」と書かれた大きな看板が立てられていた。何の学力検査だか分からなかったが、翌日の朝刊を見てその日に「東京都立高等学校入学者選抜学力検査」が実施されていた事を知った。看板には「学力検査会場」とだけ記されていたので、入学試験が行われているとは確信が持てなかったのである。そして本日は校門の前に「平成25年度 入学手続・合格発表 会場」と書かれた看板が立てられていて、多くの受験生や保護者が検査結果の発表を不安な面持ちでじっとその瞬間を待ち構えていた。午前9時丁度に合格者の受験番号が並べられた掲示板が開示されると、その前には色々な顔が湧き上がったのである。保護者同伴で来ている受験生が多く、保護者である母親は合格者発表の掲示板に辿り着く前に既に泣きべそをかいている。不安と緊張の極限状態で掲示板の前に立つと、その場で母と娘は抱き合ってよよと泣き崩れた。合格者の母と子は殆どが泣いている。母親は人前も憚らずに号泣している。然もあらん。一方で不合格となった者は無言の放心状態で立ち去ることになる。不合格となって悔し涙を流す受験生は殆ど見かけなかった。合格者の親子は天にも昇る気持ちで満面に喜びの笑顔を溢れさせている。飛び上がって喜び、一緒に合格した友と抱き合って歓喜の声を出す。学力を検査した結果として、合格者と不合格者に分類されるのは致し方ない。病院の各種検査も身体各部分の合格と不合格を見極めているのだろう。今日は気温も上昇して穏やかな一日となる。合格した受験生は合格した学校で、これから3年の間に勉学に勤しみ青春を謳歌して貰いたい。不合格となった受験生は他の何れかの学校に入学することになるだろうが、まだまだ何も決まっちゃいない。合格者はそれなりの苦労と努力を積み重ねた結果として、志望校の学力検査に首尾良く合格したのであるが、僅かの点差で不合格になった者も多いと思う。明日からは新しい、今年だけの3月がやって来る筈だ。合格した受験生には心から祝福をし、不合格となった受験生には、学力に於いてやや足らざる部分が有ったことを自覚して、今後の勉学に尚一層勤しんで貰いたいと願う。


2月27日 (水)  蜘蛛

私はその頃、5歳ぐらいだったと記憶している。家の軒下に大きな蜘蛛の巣がかかっているのを発見した。蜘蛛はオニグモだったかも知れない。見ると綺麗な紋白蝶が、蜘蛛が仕掛けた網にかかってもがいていた。私の傍らには祖母が立っていた。祖母はすぐに近くにあった棒切れを手にして、蜘蛛の巣を破壊して蝶を逃がした。そして祖母は「あぁ、今日は良いことをした。可愛そうな蝶々を逃がしてあげたのだからねぇ」と言ったのである。然し私は納得がいかなかった。蜘蛛は大変な苦労をして網を作った筈である。そしてようやく網に掛かった餌を、人間が邪魔をして逃がしたばかりか、折角作った仕掛けを破壊してしまったのである。私はその疑問を祖母に投げかけた。「おばあちゃん、それじゃ蜘蛛がおなかを空かせてしまうよ。蜘蛛に悪いよ」と。すると祖母は「まぁ、この子は何て気味が悪いことを言うんだろう。蝶々は綺麗で可愛いけれど蜘蛛は気持ちが悪いんだよ。そんな変なことを言うもんじゃない!」と私を叱ったのである。私は蜘蛛が気の毒で堪らなかった。気味が良いとか悪いとか言うのは人間の都合なのである。私はゲジゲジや毛虫を見て可愛いとは思わないが、気味が悪いからと言う理由で叩き殺そうとは思わない。窓から部屋に入り込んでしまった虫たちは、出来るだけ外に戻すようにしている。何故あのときに、私は紋白蝶ではなくて蜘蛛に同情をしたのだろうか。雨上りの雫に光る芸術的な幾何学模様を見て、作品を作った蜘蛛さんに敬愛の念を抱いていたのかも知れない。


2月26日 (火)  究明

私が小学校5年生のときである。先生は若くも無く年老いてもいない年齢の女性であった。国語の授業中に先生が「誰か地図帳を持って来ていない?」と生徒に問いかけた。その日は社会科の授業が無かったので、誰も地図帳を持って来ていないと思ったが、一人の女子が「持っています」と手を挙げた。その子の名前は「笑美子(えみこ)」といって、クラスの女子では中心的な存在であった。先生は国語の授業中に地名が出てきたので、そこが何処の場所であるかを地図で示したかったようである。この時間に唯一の貴重な存在であった地図帳は、順番に席を巡ってクラスの全員で閲覧されたのである。役目を終えた地図帳は「どうもありがとう」の声と共に先生から笑美子さんの手に返された。暫くして「先生!」と笑美子さんが手を挙げた。「地図帳の私の名前の横に(わらいこ)と誰かが書いたんですけど!」と申し立てたのである。先生は誰がこれを書いたかを生徒に問いかけたが、誰も名乗り出るものはいなかった。授業が終わって放課後になっても、先生は犯人探しを諦めなかった。「笑美子さんの名前に(わらいこ)と書いた生徒が名乗り出るまで誰も自宅に帰さない」と先生が言ったのである。時間の経過と共に「塾に行く時間なので帰らせて欲しい」という子や、「ピアノのお稽古の時間に間に合わなくなる」という生徒からの申し出も全て却下して、先生は真相の究明を果たそうと試み続けたのである。そして先生にはあるアイディアが浮かんだようであった。「みんな、机の上に顔を伏せて両腕を机に乗せて下さい。そして目を閉じて下さい。自分がやったと言う人はそっと手を挙げてください」と先生が言い終わらないうちに「わぁっっ!」と言う大きな泣き声が聞こえた。「私がやりましたぁ〜っ」としゃくり上げながら一人の女の子が立ち上がったのである。先生は犯人が名乗り出たので至極満足したようであった。その子が笑美子さんに謝罪をすることで、騒ぎは収まって皆は解放された。然し私は子供ながらに、もっと良い解決方法が他に有ったのではないかと疑問に思ったのである。名乗り出た女子も自分で罪を背負ってこの場を凌いで、帰りたがっていた同級生を救おうとしたのかも知れない。名乗り出た女の子の席には多くの女子が駆け寄って慰めていた。その女子はいつまでも泣いていたが、翌日は普通に登校して来たので私は安心をした。小学校の授業中に起きた小さな事件ではあったが、今も尚、あのような時にはどうやったら最良の結果を得られたのかを考えている。他人の持ち物に悪戯書きをするのは良くないが、先生がクラスを代表して笑美子さんに謝罪をすれば良かったのではないか・・・。それで十分だと思う。


2月25日 (月)  

私の母には妹が居た。器量が良くて頭脳明晰で学校の成績は常にトップクラスで運動能力も優れていた。先生や友人から大変に信頼されていて交友も多かったという。その動作は俊敏で何をやらせても要領も手際も良く、宿題等もさっさと片付けてしまう。姉妹で悪戯をしたりして母親(私から見れば祖母に当たる人)から怒られるときは、妹は脱兎の如くに駆け出してその逃げ足は速く、あっという間にその姿を消してしまうのだった。その結果として逃げ遅れた母は祖母に捕まって、竹の物差しや箒やはたきで妹の分まで嫌と言うほど叩かれたと言う。さっさと逃げた妹は陰に隠れて笑って見ていたという。そんな姉妹がある時に大喧嘩をした。妹は口も達者で早口で一方的にまくし立てて攻撃をして来るから姉は到底適わないと思った。そしてこう言い放ったのである。「あんたなんか死んじゃえば良いのよ!」と。それから暫くして妹の体調が急に悪くなり、床に伏せて何日もしないうちに容態が急変して亡くなってしまった。享年20歳であった。死んでしまえと願った姉は、自分のせいで妹が死んだのだと思い、その言葉を放ったことを強く後悔したのである。葬儀も済んで数日が経ったある日、祖母が弔問に訪れた親戚の者にポツリと漏らしたという。「あんなに優れていた娘が早死にしてしまったのは本当に悔しいことだ。死神は妹ではなくて、姉の方を連れて行ってくれたら良かったのに・・・。」と。母は障子の向こうでそれを聞いて大いに傷ついたが、それも尤もなことだと妙に納得したのであった。姉の願いは叶えられたのかも知れないが、祖母の願いはまったく叶わずに、私の母は現在も長命を保っているのである。母は私にこう言った。「妹はする事が何でも早かったからさっさと死んじゃったけど、私はのろまだからまだまだ死ねないの」と。


2月24日 (日)  穿刺

血糖値を測定する為には穿刺器具を用いて指先等に穿刺針を刺す必要がある。直径1ミリ程度に出血した部分にセンサーをあてれば測定器に血糖値が表示される。今まで用いていた穿刺器具は長さが約13cmで白色の太くて丸い筒であった。今般、病院の都合により穿刺器具が他のメーカーの製品に変更されることになった。先日その説明を受けて製品を持ち帰ったが、今度の穿刺器具はブルー系の暗い色で長さ約7.5cmの平型で製品名は「ライトショットミニ」と表示されている。基本的に使い方は今までと同じであるが、名前に「ミニ」と表示されているように本体がコンパクトなのである。朝の血糖値測定に使ったが、夜になって血糖値を測ろうとしたら穿刺器具が見当たらない。そんな馬鹿なことは無いのである。朝は確かに使って薬箱の中に入れた筈なのであるが、夜になったら穿刺器具が消えているのである。何処をどう探しても見つからず、心当たりの場所も無く途方に暮れてしまった。穿刺器具が無ければ穿刺針を使うことが出来ず、血糖値を測定することは出来ないことになる。はて面妖な・・・。必死になって家中を探したら穿刺器具は座椅子の上に落ちていた。ブルー系の暗い色なので座椅子の色と同化して見逃したのである。薬箱を運ぶ途中で隙間からポロリと落下したらしい。ミニと名前が付けられているように、本体が小さいので紛失することも有り得たのだ。兎に角発見できたので夜の血糖値測定は無事に実施することが出来た。介護施設で介護士が介護される立場の人にインシュリン注射を行うことは医師法に触れるとして問題になっている。看護師がこれを行えば問題は無いが、実際には介護職員がインシュリン注射を日常的に反復継続して行っているケースが多くあるようで、その是非が問われている。ある記事で記者が介護施設に赴いて、その様子を以下のように説明していた。「インシュリン注射器はボタンを押すとパチンという音がして、注射器の中から針が飛び出る仕組みになっている」と述べていたが、これは事前の血糖値測定の為に使われる穿刺器具の誤りだと思う。記者の観察が正確でない為に穿刺器具とインシュリン注入器を見誤ったのだと思う。実際に器具を見たり扱ったことが無い人がこの記事を読めば、インシュリン注射器から針が飛び出るという間違った知識を持つことになるだろう。新聞記事もまた同様なのである。実際に現場にいた人が読むと随分と内容が違っていることに気が付く。新聞記事が事実をいつも正しく報道しているとは限らない。テレビやラジオの場合にはもっと注意が必要である。


2月23日 (土)  

ここ暫くの間、多くの色々な顔を見比べて来たのだが、漸く求めていた顔と出会えたのである。顔といっても生きた人間の顔ではなくて雛人形の顔である。雛人形には一般的な人形と木目込み雛人形が有り、どちらを好むかは個人の好みによるだろう。木目込み雛人形の顔は作者によって随分と違っている。同じ作者でも販売価格帯で微妙に違っているように思える。安価な雛人形の顔はやはり何処と無く気品が足りないように思えるし、高額な雛人形は優雅さと気品とを兼ね備えているように思える。私が気に入ったのは真多呂人形の顔である。価格帯によって表情が違って見えるのはこちらの先入観にもよるのだろうが、安物の雛人形の微笑みは安っぽい作り笑顔を感じさせるし、高価な雛人形の表情は微かな笑みを漂わせているだけでも、見る者の気持ちを穏やかに和ませてくれる。人形の顔でさえこのように気持ちが変わるのだから、人間の顔なら尚更に相手の気持ちに変化を生じさせるのだろうと思う。「目は口ほどにものを言い」というが、幾ら作り笑顔をしたとしても目が心を表しているのだから、顔と心が一致していなければ相手に気持ちは伝わらないことだろう。幾ら眺めても飽きない魅力を持つ真多呂人形の顔は、色々なことを考えさせてくれる奥深い伝統を持った芸術作品であると思う。まるで人形に魂がこもっているように感じられるのである。


2月22日 (金)  曖昧模糊

見たり聞いたりしたことが無いばかりか、実際にそのような場面に遭遇した経験が無い事柄に関しては、分かったような分からないようなぼんやりとした概念を抱いたまま、無関心のままで其れ等をやり過ごそうとするのだろうか。2013年の現代ではパソコンやスマホを用いれば大概の事柄を細部まで知ることが出来る。テレビのニュース番組で児童がエピペンを携行していたにも関わらず、小学校の教師がそれを使う必要性とタイミングの判断を誤り、結果として児童が死に至ったという問題について報じていた。エピペンとは何か。家族ではない第三者がが他人に注射をすることは、医師法に抵触するのではないかという疑念を覚えて少し調べてみた。エピペン注射器はインシュリン注射器と違って、同じ注射筒に注射針(ペン)を差し替えて繰り返し使用することは出来ない。アレルギー反応を抑える為にアドレナリン製剤を含むエピペンの先端を太股に直角にあてて注射針を飛び出させ、数秒間そのままにして薬液を体内に注入させる仕組みなので、一度使用したエピペンは二度三度と繰り返しては使えない事になっている。使い終えたエピペンは医師の元に持参して、次回の不測事態に備える為に新しいエピペンの処方をして貰う事になる。使い終えたエピペンと新しいエピペンをその度に交換するシステムとなっているから、家庭から一般ゴミとして排出される性質をエピペンは持ち合わせていない。糖尿病で用いられるインシュリン注射は医師や看護師から指導を得た本人か家族に限って、注射という医療行為を行うことが出来る。では教職員が不測の事態に陥った児童にエピペンを注射する行為は医師法に違反するかと言うと、文部科学省がそれは反復継続性が無いので医師法に違反しないという見解を示している。ここでは行為が反復継続しないことが条件になっている。目の前で児童が給食を食べた後にアレルゲンの摂取によるアナフィキラシーの症状を呈しているのに、医師法に抵触するからといって教職員が注射を躊躇って傍観していれば、それは児童を死に至らしめる結果を導く可能性を生じる事になる。エピペン注射はそのタイミングを逃すと効果は期待が出来ないので、教職員は普段から家族と綿密に連絡をとって、エピペンを用いるタイミングと取り扱いに関する情報を共有する必要がある。然るに実際には教職員はエピペンに対して曖昧模糊とした概念を有しているばかりで、不測の事態に遭遇しても正しい対処を取ることが出来ない状況に置かれているのが現実であるとニュース番組で解説をしていた。AEDもその例外ではない。私はAEDを取り扱う訓練を受けたことは有るが実際に使用した経験は無い。今の時代にAEDという名前を聞いたことの無い人は少ないだろう。然しその知識が曖昧模糊としているならば救える人を救えずに、救急車の到着を待つことになるだろう。AEDの正しい取り扱い知識を持ったからといって、自身の身に取り返しの付かない大損害が生じることは無いだろう。くだらないバラエティー番組をテレビで観る時間があったら、一度でもAEDについてインターネット上で学習するべきである。ここで曖昧模糊としたままにすると、何もかもが曖昧模糊としたままで一生を終えることになるだろう。曖昧模糊として生まれて曖昧模糊として生き、やがて曖昧模糊として死に至る。これは人の必定ではあるが、理解しようと努めて解明できる部分があるならば、そのように努めたいものだと思う。


2月21日 (木)  吝嗇

吝嗇とは「けち」を示す言葉である。通常は金銭や品物を出し惜しみしたり、そのような行為をする人を指すときに用いられる。節約や倹約は「けち」とは異なると解釈される。要するに節約や倹約が度を過ぎた場合に「けち」と言われるのである。ではどのような状態が「けち」でどこまでが節約や倹約なのであろうか。歯を磨くときに水を出しっ放しにすると水が無駄になるばかりか水道代の料金が増える。コップを用いて最小限の水で用を足すのが望ましい。このような節約を日常生活の全てに於いて徹底すると、ガスの炎は鍋の外に出ないようにレバーを調節したり、人がいない部屋の照明を消すことになる。これらの行為は無駄を省いているだけなので「けち」とは言えない。これが度を過ぎて他者にもこれを適用するようになると吝嗇と言われるようになる。人にお祝いの贈り物をする時に安物の特価品を探してなるべく出費を抑えようしたり、お寺へのお布施も最小限にしたいと考えるようになる。これ等は物質面での「けち」であるが、問題は精神面での吝嗇である。何かをする際に骨惜しみをする癖をつけると、合理的なようでいて実は単に楽をしたかったからに他ならない卑しい心に支配されていることが多い。自己が持てる力の出し惜しみと骨惜しみである。フジコさんはピアノの演奏に於いて、渾身の力を振り絞って芸術を表現されている筈だ。ステージ上で渾身の力を出さない演奏家はいないと思うが、聴き手に必ずしも感動が伝わらない場合も有るだろう。我々は日常生活で渾身を尽くしているだろうか。否である。だからこそコンサート会場はそのような意味に於いても非日常なのである。フジコさんは昔からの物を大切にされているが、寄付を惜しんだり困っている生き物を救うのに躊躇ったりはしていない。我々は物質的にも精神的にも出し惜しみや骨惜しみをするのではなく、渾身を尽くして日々の生活を送るべきなのである。面倒だと思うのは吝嗇な心が働いているからであり、あともう少しの力を出せば実行をすることが出来る筈なのである。よほど肉体的に実行が困難な場合(怪我をしている等)でなければ、手も足も動かせるはずだ。同じような品物を二つ持っていたら、自分が欲しいと思う良い方を相手に渡そう。自分が貰ったら嫌だと思う悪い方を相手に渡すのは吝嗇なのである。吝嗇家は卑しい心に支配される人を指す言葉である。


2月20日 (水)  記憶

幼い頃の記憶として残っている最も古い映像は3歳違いの妹が生まれて来た日の家の中の様子である。その頃は産婦人科の病院で出産をするよりもお産婆さんが家に駆けつけてくれて、自宅で出産をする形式が一般的だったと思う。二階の部屋で母が横になっていたのだが自分は階下に降ろされ、祖母から許しが出るまでは決して階段を上ってはいけないと言われた。自分は何もすることが無くて家の柱によじ登ったり降りたりしていたが、突然に家中が慌しくなった後に妹が産湯で洗われているのを皆で囲んで見たのである。その前後の記憶は皆無かと言うと、妹が生まれる前だったか後だったか分からない記憶も有る。神社の夏祭りで山車を引くときに綱を手にした子供たちには、山車が神社に戻って来た時点でお祝いとしてお菓子が与えられた。そのことを知らずに山車が神社に戻る手前で自分は綱に手をかけたのだが、知らない子が「今から綱に手をかけるのはずるい」と文句を言った。その時に長姉が「じゃぁ、私が抜けるからそれで良いでしょう?この子に引かせてくれる?」とその子に言った。私と姉が入れ替わるのならそれで良いとその子は言った。あの時に姉がとった行動と思いやりは今でも変わらない。もうすぐ雛祭りであるが、我が家では七段の雛飾りを並べていた。母を始めとして家中の者が、夜中になると五人囃子が音楽を奏でて三人官女が舞を踊るのだと自分に教えてくれた。何とかそれを見ようとしていつも薄目を開けてお雛様を見ていたが、音楽も舞いも見ることは出来なかった。その原因は夜中になる前に自分が耐え切れなくて眠ってしまったからだと信じて疑わなかったのである。朝食のとき、母に昨夜はお雛様が踊ったかどうかを問うた。母は人間が起きているとお雛様は動かないでじっとしているけれど、人間が眠ったのを確認してから歌ったり踊ったりするのだと教えてくれた。その説明で自分は納得してしまったのであるが、では一体誰が踊っているお雛様の姿を見たのかは謎のままなのである。このような幼児体験は今も尚、音楽や芸術に対する基本的な観念を私に抱かせているのだと思う。大人が考えている以上に幼子は記憶を保持しているのである。ある作家が長女の後に長男が生まれて来るのを期待していたが次女が生まれた。そのときに「いらないやつが生まれて来た」と周囲に漏らしたそうである。母親は「女の子でも良い児になれ、女の子でも良い児になれ」と涙を流したそうである。次女は少し大きくなってからそのときの話を周りの者から聞かされて「自分は要らない子だったのだ」と悩み始めるのであった。「いらないやつが生まれて来た」と言った本人は、そのことをすっかり忘れてしまったようである。自分が発した何気ない一言が人の一生に大きなダメージを与える記憶として残ったことを知らないままにその作家は逝ったのである。次女は自分が父親にとって大切な存在であったことを、父親の死の直前になって初めて知った。長姉は早くに亡くなっており、父親を看病してその最期を看取る役目を担ったのは要らなかった筈の次女なのであった。


2月19日 (火)  

数年前のある日、食器を洗っていて小皿の多さに閉口してしまった。ランチプレートを用いれば3枚の小皿が1枚になり洗う手間と水の節約になって一石二鳥であることに気が付いた。紙やアルミを素材とする使い捨てタイプは再購入を余儀なくされてしまうので、キャンプ用品として売られていたプラスチック製で5枚1組が800円のランチプレートを購入した。これならば繰り返して使えそうである。仕切りが三つに分かれていればそれで用は足りるのである。最初のうちは新しいから何も問題は無く使用していたが、素材がプラスチックのポリプロピレンであるからやがて表面が磨耗して傷だらけになり、油汚れが洗剤で洗っても綺麗に落とせなくなった。極め付けはカレーライスである。お皿がカレー色に染まってしまい、数日間は着色されたままで使用せざるを得なかった。今まではこれで良かったのであるが、この頃は食事に集中する生活を心がけていて食べ終えた後に何か判然としない気分を感じていた。惨めな姿になったプラスチックのランチプレートでは盛られた料理が視覚的に劣ってしまうのである。現在は料理をじっくりと見ながら咀嚼をしているので、汚れたプラスチック皿が背景では何かが満たされない。ランチプレートの買い替えを検討したが、当方の条件に適合する製品がなかなか見当たらないのである。第一にプレートの直径が22cm以下の丸型であること。以前に一辺が22cmの角型皿を購入して大失敗したことがある。一辺が22cmだと対角線の長さは22の二乗プラス22の二乗の合計の平方根だから対角線の長さは31cmとなり、我が家の電子レンジでは角が当たって皿が回転できなかったのである。小さい角型皿でも対角線の長さは28〜29cmになる。コンビニで買った弁当を我が家の電子レンジで温めようとして弁当が回転しなかったこともある。条件の第二は軽量であること。陶磁器の製品は直径が22cmの丸型皿の場合は500グラム程度である。これは軽いとは感じられない重さである。第三の条件は落下しても割れにくくて丈夫なことである。第四の条件は真っ白ではなくて絵柄で料理を盛り上げてくれる美しさと気品を備えていることである。要するに小さくて軽く、丈夫で綺麗な丸い仕切り皿を求めたのである。この条件で色々と探したのだが二日間は該当するランチプレートを見つけ出せなかった。然しながら諦めずに探せば見つかるもので、当方の四つのお願いを叶えてくれる商品が有った。直径は21.5cm、重量は270グラム、素材は全面積層強化ガラス(原産国:アメリカ)、絵柄はプリティピンクの可愛い花の絵。この商品は膨張率の異なるガラスを三層にしており、他のガラス・陶磁器製品よりも強い特性を有している。表面がツルツルなので汚れが落ちやすく、ガラス製品なので環境ホルモン等の有機物を含まないので安心。糸底が無いので重ねてもコンパクトに収納できる等の利点が多く、欠点は特に見当たらない。価格は1枚あたり1,000円程度とやや高額に思えるが、劣化等による再購入の心配が無いのでトータル的には許容できる範囲だと思う。油に汚れた場合でも食器洗いが楽になることも嬉しい。美しい皿に盛られてこそ料理の味もまた更に生かされることと思う。


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